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カルパチアの城

2009年11月27日 00:42

ジュール・ヴェルヌ』著 安東 次男 訳 集英社文庫 255ページ

先日紹介した、「甥に打たれた銃撃事件」の後に書かれた作品。
この事件があった1886年を挟んで前後に作品を分けたときに、前半に「海底二万里」や、
「地底旅行」「気球に乗って五週間」などの壮大な冒険作品が揃っているのに対して、
後半は「地軸変更計画」、「世界の支配者」など暗い(というか、穿った姿勢の)作品が多い。
事件があった後は、「もうアミアンからでない」と妹へ手紙を書いたヴェルヌ。
旅行好きだったにも関わらず、自家用ヨットも売り払って、内にこもる生活へシフトしている。
今回も、その後半の作品の一つに数えられるもの。

<あらすじ>
トランシルヴァニア地方に、打ち捨てられたカルパチアの城。
極端に迷信を信じる封鎖的なこの土地では、何年もこの城には幽霊が住んでいると信じられ、
人々を寄せ付けていなかった。しかし、ある日、羊飼いのフリックは城から煙が上がっているのを発見する。

この城の探索に名乗り出たのは、若き林務官のニックだった。
彼が、村の代表たちを前にして出立を宣言したとき、部屋には不気味な忠告がどこからともなく響き渡る。
「城ニハ行クナ…サモナクバ、オマエニハ、不幸ガフリカカルダロウ!」
かくして城にたどり着いたニックに、本当に不幸が訪れる。
彼は人間には理解できない奇怪な現象によって、意識不明の痛手を負った。

折にこの地方を訪れていたテレク伯爵は、この事件を村人から聞き出す。
その際、カルパチアの城の持ち主が、ロドルフ・ド・ゴルツ男爵だったという事を知る。
テレク伯爵は、その名前に驚愕する。なぜなら、その昔、伯爵はイタリアのナポリで、
ラ・スティラという歌姫をめぐって、ゴルツ男爵とは因縁の関係にあったからだ。

テレク伯爵は、ナポリに滞在していた当時、ラ・スティラとの結婚を控えていた。
彼女の舞台へは気味が悪いほど毎日顔を出していた、男がいた。
それはまさしく、カルパチアの城の末裔である、ゴルツ男爵だった。
引退を前にした最後の舞台で、終幕のセリフを言い終わったラ・スティラは、突如吐血して死んでしまう。
数日後、ゴルツ男爵から、テレク伯爵に届けられた手紙には、「彼女を殺したのはお前だ」と書かれていた…。

真相を確かめに城へ潜入したテレク伯爵は、そこで死んだはずのラ・スティラの歌声を聴くのだった。
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楽天的な雰囲気は前期に比べて無いものの、講義的なところが抜けて読みやすくなった後期の典型。
城に入る頃には、本の4分の3くらいは終わっているので、最後があれれーというアッサリな感じでした。

トランシルヴァニア地方の迷信深さは、本当なんでしょうか。物理学で証明できない事は無いという
スタンスのヴェルヌには、こういう迷信深い村人たちを登場させてるのは、皮肉にしか見えません。
最後の段階で、科学によってすべてのネタは明らかにされるのですが、結末と差をつけるためか、
作品中に、「こういう迷信深い人たちは、いくら説得してもしょうがない」というくだりも多く見られます。

そういう意味では、「ほーらね、摩訶不思議な事はいくらでも科学で作り出せるのさ」という、
ちょっと嫌味な印象を受けますが、それもそのはず、本書の最初にヴェルヌ自身明言しています。

「わたしたちはいまや、なに一つ、不可能なことはない、なに一つ不可能はなくなった、
 といってまずさしつかえない時代にいる。たとえわたしたちの物語が、
 今日はまだありそうでなくとも、明日になれば、未来の財産たるさまざまな科学的手段によって、
 ありうるものにかわるかもしれない。(中略)もはやこれ以上伝説がつくりだされる気づかいはない」

ルーマニアの古城…といって思いつくのは、「ドラキュラ」ですね。
作品の第一印象は似てますが、ストーカーの書いたこの作品の3年前に、すでに本書は書かれていました。
解説で矢野浩三郎氏が述べているが、同じ題材でもストーカーの書いたドラキュラとは反対に、
ヴェルヌは迷信の闇に科学の光を当てようとする姿勢を崩さない…という意見は的を得ています。

よくヴェルヌはSFの始祖と評価されているのを見かけるけれど、私はちょっと違うかなと感じてます。
上記の文章にしてもそうだけれど、あくまでも「科学的可能性」の範囲からヴェルヌは飛躍しない。
つまり、科学で証明できないような、異次元ワープや、タイムマシンなどは登場しない。
(ここらへん、ウェルズと対比している論文を読んだら面白いのだろうなあ)

電気があれば、なんでもできる!と言っていたヴェルヌは、これからの科学の発展を見据えて、
空想を膨らませて小説にしていた。科学の可能性を信じて、実現を確信していた。
人類がいつか月に行くだろうということを、「月世界へ行く」で。
潜水艦で海底を冒険するだろうということを、「海底二万里」で。
SF小説と、空想科学小説は、同義ではない。あくまでもヴェルヌは「空想科学小説の父」だという事です。

話が飛び過ぎてしまいましたが、今回も近代的発明品として映写機が出てきたりしています。
物語構成をもった映画が1902年に作られたことを考えたら、この先見の明はすごい。
晩年になって、悪者が科学を用いるという作品が増えて、傾向は変わったのものの、
発想の原点は、やはりヴェルヌらしいと思わせる作品でした。


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