スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

女の一生

2008年08月10日 23:06

『ギ・ド・モーパッサン』著 新庄 嘉章 訳 新潮文庫 364ページ

修道院で教育を受けた純潔な貴族の少女ジャンヌ。
寄宿舎を出て、これから幸福と希望に満ちた結婚生活に入ることになる。
抑制されていた自由の爆発。うぶで世間知らずの少女は、その危うさに気がつくことなどなく。

彼女は外の世界で恋を経験し、結婚する。
しかし、夫は獣性を表し、妻を裏切り、さらに最愛の息子までも彼女を裏切る。
夢が一つずつ崩れ、暗い孤独と悲観主義がその人生に覆いかかる。
私たちは最後の最後までそれでも救いを期待してしまうのだ。

夢想だけで失神を誘うような少女を描き、純粋さを強調するモーパッサン。
彼女があまりに脆く成長したのは、父親のエゴであったろうし、生まれ持った純粋さでもあっただろう。
「これは私の太陽だ!私の夜明けだ!私の生活の始まりだ!私の希望の門出だ!」
歓喜の門出で興奮するジャンヌ。絶望との対比が激しく、読む側が心を痛める。
作者は人間のエゴや愚かさを何気ない行動から沢山引き出し、読む側にそれをストレートに訴える。

幸せな生活をしていたら、その水準の生活から落ちたり、愛されなくなったりすることに、人は耐えられない。
なぜなら、これ以上のものがあると知ってしまっているからだ。
ジャンヌは両親の愛に恵まれていた。恋人にも途中までは恵まれていた。
悲しみや苦しみを解決してくれるのは時間であり、思い出を美しくしてくれるのも時間である。
年老いて、絶望を味わいつくした時に、彼女は年寄りが昔の思い出にふけるように、その時を思い出していた。

ジャンヌにはおよそ世の中の幸せというものを経験した事もなく、誰からも愛されることのなかったリゾン叔母さんという親戚がいた。
夫と幸せだったとき、ジャンヌは一度だけリゾン叔母を笑ったことがある。
今は自分が笑われているのではないのか。そんなさりげない伏線もするどい。

彼女には息子が生まれるが、狂熱的な愛し方で息子を育て始める。
絶望を味わった人間は、「もう私にはこれしか残されていない」と思いがちである。
確実に信じられるものだけを探し出し、それに没頭する。
しかし、そこから生まれるエゴもまた、負の連鎖の一部にすぎない。
そんな事を、誰が気がつくのだろうか…。

例えば子離れのできない母親がいたとして、息子が恋人と遊びに行く事を聞いて、
「もう、大人だからね」と思えるか、「裏切られた」と思うかは、極端に言ってしまえば、
愛すれば愛するほど、裏切られたと感じてしまう、ハリネズミのジレンマだ。
まさにジャンヌは後者だった。夫の裏切りを受けて、傷ついた心が求めたのは息子の独占だった。

この作品、最後まで救いがないのかどうか、本当に心配しながら読みました。
胸が重くなるような感覚を覚えながら、読み進めていくうちに、やっと見えてきた答えがありました。
人を落とすのは人であるが、人を救うのも人である。
人生に期待しすぎず、落胆しすぎないこと。

どんなに絶望を味わって、自分という人間が変わってしまっても、変わらないものがある。
それはいつも変わらず感動を提供し続けてくれている。
すなわち、美しい自然に身を震わせ、生き物を愛で、空の青さに感動することだ。

モーパッサンは、それを文章としてはっきり示唆していない。
けれど、「空のよく晴れわたった日には、人間はどうして希望を持たずにいられようか?」と作品中で述べているように、
そのことを伝えるために、自然の美しさを文章に極めて多く取り入れたのではなかったか。

読者は主人公のヒロインと一緒に救われる。
ジャンヌは決して最後に幸せになる訳ではないが、また希望を持って生きていけることだろう。
いい作品でした。名作だと思います。これだから海外文学はやめられない。


参考になった!という方はゼヒ押してくださいッ →  にほんブログ村 本ブログへ

スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://hihidx.blog115.fc2.com/tb.php/156-194c39a5
    この記事へのトラックバック



    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。