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チャタレー夫人の恋人

2008年11月30日 02:38

『D・H・ロレンス』著 武藤 浩史 訳 ちくま文庫 616ページ

今月のテーマ月刊の最後は、王道でいくことにしました。
昭和32年の「チャタレー裁判」で有名なこの作品。
参考→Wikipedia「チャタレー事件」

今回は問題になった伊藤整氏の訳ではなく、砕けた文章で読みやすい武藤氏の訳にしました。
書評なんかを見ていると、伊藤氏の訳はお堅くて、とっつきにくい感じというのが、
皆さん共通する意見のようですが、それぞれに良い部分と悪い部分があるなという印象。
エッチなのを期待して読むなら、だんぜん武藤訳ですが、そういう見方でなく純文学として読んでほしいところ。

自然の描写などの、美しくてみずみずしい表現は、読んでいる限り
これが猥褻物頒布罪で訴えられて、出版社側が敗訴した作品だとは思えません。
そもそも、そんなに猥褻な表現とも感じませんしね。
マルキ・ド・サドの「ソドム百二十日」の方がよっぽど猥褻です。

上流階級のクリフォード・チャタレーと結婚したコンスタンス(コニー)。
しかし、二人の密月は夫の戦争による下半身不随によってあっけなく終わった。
二人は知性的な生活に没頭して、それに満足しているように見えた。
人間が性の営みを放棄したときの苦しさは、彼女を徐々に悩ませ、空しくさせた。

ある日、散歩の途中で猟番メラーズに出会い、やがて激しい情愛の歓びを知るようになる。
彼女は今までの反動のように、自分をとき放った。
「だめっ!行かないで!私から離れないで!私に怒らないで!ねえ抱いて!強く抱いて!」

ロレンスが残した傑作は、日本でも反響を呼び、戦争、階級、メディア、セクシュアリティの問題を提示する。
割と「いやらしい小説」というイメージでしか見られていない側面があるのは、非常に残念。
最後に武藤訳と、伊藤訳の違いを参考までに、12章から引用しておきます。

<伊藤訳>
「彼女は彼のペニスが彼女のからだに無言のふしぎな力を示し、主張をしているのを感じたが、その主張に自分を委(マカ)せた。
 彼女は死を思わせるような痙攣に身をゆだね、彼に向って全身を開いた。
 ああ、もし今彼が彼女に優しくしてくれないならば、それはどんなに残酷なことであったろう。
 なぜなら彼女は彼に向って自分のすべてを開き、まったく無力になっていたからだ」

<武藤訳>
「女はみずからを解き放った。男のペニスが驚嘆すべき無言の勢いで断固勃起するのを体に感じると、
 女はみずからを解き放って男にひらいた。死に似た小さい震えと共に屈服して、男にすべてを投げ出した。
 ああ、すべてを男にひらいて無力になったこの時に男が優しくしてくれなければ、なんと残酷なことになるだろう」

伊藤氏の訳は「完訳 チャタレイ夫人の恋人」新潮文庫から出版されている。


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肉蒲団 上

2008年11月28日 20:55

『李笠翁』著 足利 光彦 訳 富士見ロマン文庫 246ページ

本を買うときよく利用するのがAmazon。小説を購入するのに、18歳以上警告が出たのは今回初めて。
そんなにエロいかなあ…?そうは思わないけど…。

あの魯迅も絶賛したという作品。
中国の4大奇書といえば、「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」がありますが、
その中の「金瓶梅」といえば、ちょっとエッチで有名。この「肉蒲団」は、「金瓶梅」と並んで称される。

絶世の美女を妻に娶った未央生(ミオウセイ)は、それだけでは満足できず、
さらに多くの女と情交を結ぶべく、放浪の旅に出る。

まったくこの若者の姿の見事さや、立ち居振る舞いの水際だった様子、
その目や口や鼻や耳や肌や手や、足のすぐれた点を一つ一つ挙げていったら、
何十篇の詩が作れ、何百篇もの賛嘆の文が書けるありさま。
もともとこのような容姿に恵まれ、才知豊かであったため、未央生は自分にかなりの自信を持っていた。
しかし、ひとつだけ決定的な欠点があった。

「ナニが小さかった」のだ。

盗賊の兄貴分、賽崑崙と手を組んで女を手に入れようとするも、
「お前の持ちものじゃ、女を奪うには貧相すぎる」と言われてショックを受ける。
そこで術師に頼んでナニを大きくすることにしたのだが、その方法というのが
イチモツに四つの切り込みを入れて、犬のナニを移植するという壮絶なもの。

しかし、未央生の好色魂はそんなことをもろともしない。
「ああ、先生、そのようにしていただけましたら、本当に生まれ変わったようなものでございます!」

手術後は、あまりにでかくなるため、処女を抱くと殺してしまいかねないほどになるという。
期待に胸をわくわくさせ、今日で小さいナニとはおさらばとばかりに、
おつきの少年の後庭も楽しんで、さあ、いざ手術である。

何倍ものでかさに生まれ変わったイチモツをぶら下げ、ついにお目当ての美女、艶芳と結ばれる。
艶芳は夫のいる身だったが、ついに夫もその妻を差し出すことにし、晴れて二人は公然と愛を交わすようになるのだった。

ところどころに、性描写があるもの、中国というのはいやらしい単語をうまい具合に
雅な言葉に置き換えて語るもんだから、妙に艶やかになる。
男性にはなかなか楽しめる本じゃないかな…。

実はこのエッチな描写も、実は作者が作品を通して訴えたいことがあるため書かれている。
四大奇書に並ぶ評価を受けているのだから、当然と言えば当然で、ただのエロ本ではない。
しかし、この話は下巻での紹介にて。。。


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恋愛指南-アルス・アマトリア-

2008年11月27日 23:57

『オウィディウス』著 沓掛 良彦 訳 岩波文庫 214ページ

恋愛技術は、オレが教えちゃる!とばかりに自信満々の真打登場。
ローマの一大詩人、オウィディウスの教授はギリシア神話の神々も
ダメ出しをくらうほど手厳しく、そして楽しい。

そもそも、この本はパロディ。真面目腐った題材を、面白おかしくもじるのは、この時代すでに始まっていた。
題材になったのはウェルギリウスの「農耕詩」。ウェルギリウスと言えば、古代ローマの詩人では
一番有名といっても差支えなく、ダンテの神曲にも案内役として出てきていましたね。
いたって真面目な彼。きっとA型の男でしょう(笑)。それを一変して恋の手引き本に変えてしまった。
この手法が一般市民に受けたのは言うまでもない。

とにかくローマは性愛に自由だった。どこかで触れたかもしれないけれど、ポンペイは特にその傾向が強い。
ローマ市民にとって、軽井沢の別荘のようなイメージだったポンペイ。そこでは所謂、色町があり、
公然とそれが認められるような風習で、街にはペニスをおっ立てた彫像が堂々と立っていた。
カエサルの人気が高かった当時、あの有名な「来た、見た、勝った」のセリフをもじって、
「来た、やった、帰った」なんていう落書きが残されているというのだから、なんとも愉快。
(ちなみに本書の表紙を飾っている写真もポンペイの壁画である)
そんなローマを思い浮かべながらこの本を読んでいると、何ともいえない歴史の楽しさを感じる。

「女がさわられてよろこぶ場所をつきとめたら、恥ずかしいからということで、
 そこにさわるのを遠慮しないことだ。(中略)哀願の声が発せられ、
 耳をくすぐるささやきが洩らされ、甘いうめき声と愛のたわむれにふさわしい言葉が聞かれよう。」

この人にかかると、神様だって恋愛の道具の一つになる。
「ユピテル(ゼウス)にかけて!」と、大いに神様を証人にして女を口説け!
こんな感じなもんだから、全くあんたはもー…という感じ(笑)。

キリスト教の起りによって以来、性的なものの多くが破壊され、資料も随分減った。
この「愛の技術(原題)」も例にもれず、そのテーマ性のために禁書とされる。
しかし、ルネッサンスの意味が「再生」であるように、絶大な人気を博して
本書がまた読まれるようになった。このことは、内容の面白さを語るに十分すぎる証拠だろう。


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エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南

2008年11月26日 02:10

『ジェイムズ・N・パウエル』著 浅野 敏夫 訳 法政大学出版局 192ページ

快楽のセックスから、精神の充足のためのセックスへ。
局部性器の満足を追いかけ、虚しさを募らせる現代人へ朗報。

倦怠期のカップルにぴったりの指南書(笑)。
気持ちの面でも、具体的なセックスの方法でも得るものが多かったと思います。
現実的な視点に囚われて生きる現代人にとって、セックスとはとても西洋的。
それは単に性器を結合して摩擦するにすぎない。

人間は10ヘルツの周波数で、電磁力を帯びている。
人二人のセックスによって生み出される電磁場は強力なエネルギーとなって、私たちの心身に健康をもたらす。
本当かな?と疑うことなかれ。これは実験結果から明らかに言えることなのだ。

もちろん、精神的な満足もかなり大きく、これについては女性の方が気が付いているようだ。

「私にとって、いいセックスとは性器をはるかに超えたものだわ。
 二人の肉体と魂の全部がお互いに探り合い、お互いを感じ合い、
 互いに感じやすくなり、抱き合い、いとしく思い合い、互いにやさしく、
 しっかりとわかり合い、努力して二人が一体になる。
 個々の人格でありながら、またそうじゃない。そいうのがいいセックスなのよ」

中国の道教が教えるセックスでは、このことは性の習慣に取り入れられていた。
男性は「陽」、女性は「陰」であり、セックスを行うことでお互いのエネルギーを吸い取るものだとされた。
射精は「陽」エネルギーの放出であるため好まれず、いかに至らず女性に「陰」、つまり愛液を出させるかが大切だった。
そこにロマンティックな要素はなく、彼らにとって女性は生体療法的な力を備えた敵であった。
女性と体を交えるのは戦闘に入ることだったのである。

インドでも同様の習慣があって、男女二人が神になり替わる儀式を長時間かけて行い、
徐々に性的興奮を高めていくという、儀礼的なセックスがある。

単純でいてくつろいだ形の抱擁、愛撫の微細さ、いたわりの身体的表現は現代の私たちとは無縁に近い。
それを偶然か否か、宗教という形で結びつけていた人類もいたのだから不思議なもの。

では具体的にどうすればいいのか。
…というのは、ここで説明するよりも、興味のある方が本書を読んでいただくほうが早いかと思います。
しかし、ははあ…なるほど、確かに心が満たされそうな方法です。
これを読んで、実際に冷めていた夫婦仲が改善された例は少なくないそうですよ。


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ペニスの文化史

2008年11月19日 22:00

『マルク・ボナール/ミシェル・シューマン』著 藤田 真利子 訳 作品社 318ページ

ペニス一つで歴史を語れる本!
随分前から気になってはいたけれど、女の子の部屋にこの本があったらチョット…という
知り合いの発言で手が出せなかった…。しかし!恥がなんだい!(開き直り)

とにかく目次からすでに面白い。内容が気になってしょうがない。
第Ⅲ部、「13章 自分のが、とても小さいと思われる時」「1.そして、本当に小さい時」はツボ。
参考→https://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/jinbun/tanpin/4263.htm

もちろん内容はいたって真面目。
古今東西の神話、伝説、信仰、習慣、病気、歴史上のエピソードを読んでいると、
人類がいかにペニスを重要視してきたかがよく分かる。

昔から権力の象徴、力の源とされていたペニスは、原住民の部族間抗争で今でもその事実が証明される。
争いの中で殺した相手のペニスを切り取り、その数を数えたり、
槍の先に突き刺して凱旋したりする事は、相手の力を奪い取ったという事を表している。

インドのシヴァ神は生命力あふれる神様で、ペニス(リンガ)のモチーフで祭られている。
愛の女神ヴィーナスは、切り取られたペニスが海に投げ入れられ、そこから生まれたとされる。
このように、ペニスにまつわる話は世界中で見られる。

本書の内容は、医学的な歴史もさることながら、サイズや装飾に関する話や、
コンドームの歴史、割礼の文化などが歴史的背景から説明され、とても興味深い。
中世に入ってくると宗教的な観点から、マスターベーションのタブーと、
それに伴う貞操帯の文化が発達してくる。びっくりしたのは、アメリカのジョン・ケロッグが、
性欲を抑えてマスターベーションを防止するために発明したのが、あの有名な
「ケロッグコーンフレイク」だったのだとか…!

他にも魔女裁判の話しで、魔女はその契約をするときに悪魔とセックスをするが、
悪魔のペニスは非常に固く、鱗があり、それが挿入時には閉じているが、引き抜くときには逆立って
女性に激しい痛みを与えるのだとか。悪魔とセックスをするなんて、実際にやってたわけはないので、
本当のところ何を使ってやってたんだ!?と思わずにいられない…。

こんな感じでトリビア満載の内容。
最後の部分でペニスに関するいろいろな呼び方が掲載されているが、それがウケる。
「一つ目小僧」、「聖水散布器」、「パンツの中の精霊」、「彼のビッグ・ジョン」…などなど。
人間がペニスに対して深い関心を持っていることが、この呼び方の多さだけでも裏付けされますね。


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毛皮を着たヴィーナス

2008年11月17日 20:57

『L・ザッヘル=マゾッホ』著 種村 季弘 訳 河出文庫 235ページ

サドを読んだらマゾッホも!
というわけで、マゾヒストの語源になったマゾッホ氏の作品。
私的には、サドの「ソドム百二十日」よりは価値のある作品かなと思いました。
少し脱線するけれど、有名な嗜虐SF小説の家畜人ヤプーでは、本作の登場人物、
及びマゾッホの愛人、アンナ・コトヴィッツの名前が用いられている。

参考までに
ソドム百二十日 →http://hihidx.blog115.fc2.com/blog-entry-240.html
家畜人ヤプー  →http://hihidx.blog115.fc2.com/blog-entry-17.html

思ったよりもHな内容ではなく、表現も生々しくはない。
「ソフトSM」という言葉もあるように、今日では言葉攻めだの、
軽い拘束プレイだのを楽しんでいるカップルも珍しくありません。
人間はそもそも、どちらの要素も持ち合わせている…と言いますが、
では、それを引き起こすものとは一体何なのか?
この作品では、その答えを明確に見せつけられたような気がします。

ゼヴェリーンは狂おしく一人の女性を愛していた。
その女、ワンダはとてもギリシア的な女だった。享楽を愛し、快楽を良しとしていた。
自由すぎる彼女を愛人として引き留めておくのが無理ならば、奴隷になって自分が傍にいるしかない。
ゼヴェリーンは自分からそれを選んだのだった。

「私は相手があんまり身を捧げてくれると、傲慢になるの」
そう言って鞭を振るうワンダ。男にとってみれば、愛すればこそのマゾヒズムの享受なのだ。
奴隷としての扱いをした後、必ずワンダは昔の恋人同士のように優しく接する。
ゼヴェリーンを腕にかき抱いて、唇を貪る。

「今ならまだ戻れるわ。あなたは本当にこれでいいの?」
彼女はもとの恋人に戻りたいのだろうか…それとも。

いつか、本当に引き戻せない(本当の支配の快感)に目覚めるときが来るのだろうか。
恋人たちが最後に行き着くのは、どこなのだろうか。
クライマックスで、ワンダから届いた手紙の内容に鳥肌!
これは誰でも経験するかもしれないことなのだ!そう思うと、空恐ろしい。
人間の愛の形はいろいろだなあと、余韻を引く作品。なかなか面白かったです。

「人はたぶん、自分の上に立っている者しか愛することはできないのです」
…うーむ。


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ソドム百二十日

2008年11月14日 01:06

『マルキ・ド・サド』著 澁澤 龍彦 訳 河出書房新社 312ページ

う~~っ、やっと読みたかった一冊に手をつける事ができました!
マルキ・ド・サドは、サディズムの語源になった人物。
その放蕩生活と過激な本の内容のおかげで、牢屋暮らしばっかりしてたというから、なんともスゴい。

彼の作品のほとんどが獄中で書かれたものだけれど、「ソドム百二十日」もその一つ。
ソドムとはご存知の通り、旧約聖書の中に出てくる淫蕩の街の名前。
「天空の城ラピュタ」でも、ムスカ大佐が言ってましたね。
「旧約聖書にあるソドムとゴモラを滅ぼした天の日だよ」…と。
その正体は同性愛。自慰をして精液を無駄にすることすら嫌うキリスト教は、
ましてやアナルセックスなんてもってのほか!!という訳。ソドムは神に背く街だったのです。
そして信心深いロトの家族だけを避難させて、天の日によってソドムとゴモラの街は滅ぼされるのでした…。

サドの生きた時代はフランス革命期。新しい哲学も生まれた時代だけど、キリスト教の影響は大きかったはず。
そんな時代の中で、こんな背信的な話を書いてたら、そりゃアンタ捕まりますがな…!

実際のところの内容はどうなのか。

殺人と汚職によって莫大な私財を築きあげたブランジ公爵と三人の仲間は、
「黒い森」と呼ばれる人里離れた城館で、42人の男女と共に120日に及ぶ大饗宴を催す。
8人の少女、8人の少年、8人の巨根男、4人の語り女、4人の老婆、4人の公爵たちの妻、
そして召使たち。それらが集まって、乱交の限りを尽くすのである。

集められた少年・少女の美しさと言ったら筆舌に尽くしがたいほど。
どの子供も家柄よく、教養豊かで、その美しさゆえに待つ運命を露ほど知らずに過ごしていた。
誘拐されてきた彼らは、考えうる限りの肉の奉仕を強制されることになる。
神への祈りは万死に値する。礼拝堂は排便のときのみ使用され、しかもその排便行為も
主人たちの許しが無ければ行う事が出来ない(もっとも許しを得れることはまれだった)。

ブランジ公爵はじめ、主人になる四人の仲間がどれほど淫蕩の為だけに財産を用いたか、彼らの生活ぶりを見ればよく分かる。
一週間に4回の宴会を行い、最初の宴会はもっぱら男色の快楽であった。
20~30人の若い男しか出入りが許されず、四人の仲間はその男たちに自分の尻を突かせて快楽を貪る。

二番目の宴会は女の宴会である。まことに不潔極まりない放蕩の限りをつくす道楽にも、彼女達は黙って従わなければならない。
三番目は醜悪物の宴会、そして四番目は処女の宴会だった。
処女といっても後ろの趣味を持つ彼らは見る側に立つことが多く、そういった場合は下男達が彼らの代わりをなした。
このように、彼らの生活ぶりだけでも、これから始まる120日間の饗宴が世にも恐ろしいものであるか予想できる。

最終的にどういう風に物語が進んでいくか…実は結末がないのである。
獄中で書いたために紙がなかったのか、草案だけは見つかっているけれど、
実際に饗宴が始まる手前で物語は終わっている。残念なことは確かだけれど、
いや、これでもう充分です、はい。かなりおなかいっぱいになりました。

あまりに無感覚、あまりに完全な痴愚。
人は欲望を抑制されると、ここまで逸脱した想像ができるのかと、恐ろしくなります。
さすが有名なだけはある作品。文学としての価値は私には分かりませんが、強烈な印象を残してくれることは間違いないです。


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美少年

2008年11月11日 00:50

『団鬼六』著 新潮文庫 274ページ

嗜虐的官能小説の巨匠、団鬼六の作品の中で、
「ホモセクシャル・少年愛」という分野のものは数少ない。

「美少年」とは、日本舞踊宗家御曹司の風間菊雄。
後年の小説を書く際に、その時の美少年が犯される様を思い出さずにいられないと言わしめるほど、
作者の印象に残った事件だったそうですが、これって本当にあったことらしいです。

大学生時代の作者が経験した事らしいのですが、当時所属していた軽音楽部の隣に、
邦楽部があったそうで、そこに入部したのが当の風間菊雄だったそうです。

女性よりも女性的な妖美さを持つ菊雄に、特別な感情を持つようになった作者。
ただ、久美子という彼女を持っている手前、事が大っぴらになることを避けて、
「自分はホモじゃない」と世間には弁解していた。

菊雄と体の関係になったものの、根本的にノーマルであった自分は、
ホモ同士が行うアナルセックスの知識も全く持ち合わせておらず、
性行為も「いかせてもらう」だけで、菊雄は相手が寝入ったのを見て自慰にふけるのだった。

そんな中途半端な関係だったが、ついにそれが久美子に露呈し、迫られる。
同時に菊雄とのトラブルが重なり、不仲になっていたたので、
かねてから「菊雄をやらせろ」と言っていた「山田」に菊雄をレイプさせることにする。
そうすることで、トラブルの鬱憤も晴らし、手切れにしようと考えていたのだった。

普通に考えたらスゴイことだけれど、作者自身もその時はどうかなっていたと告白している。
下宿にやってきた菊雄を、自分と山田、そして山田の女であるマリ子が待ち受け、
来ているものを脱がせて、ロープで吊るしあげる。
その後、菊雄は愛している男の前で無理やり射精させられるという凌辱を受ける…。

途中から彼女の久美子も加わって、菊雄は色々とされちゃう訳ですが、
こんなことが本当に有名な団鬼六の過去にあったのかと思うと、
にわかに信じがたい思いにかられるのです。

嗜虐的官能小説!というからには、どんなプレイがあるのやら…
と微妙に期待を寄せつつ本書を開いてみたわけですが、作者自身は基本的に本人はノーマル寄り。
むしろ周りの人間がアブノーマルな訳ですが、こういった類の趣味を持つ人たちは、互いに呼び合う波長でもあるのでしょうか。

登場する人物というのは、実に異様。
責める側もさることながら、受ける側も異様。
ただのSMプレイとして我々が楽しむ世界ではなくて、それを誇りに思うふしさえある。
その点は、収録されている「鹿の園」を読んで頂けるとより理解できると思います。

他にもピンク女優の谷ナオミの半生を綴った「妖花」などは、とても興味深い。
官能小説というのも、古き良き時代というのがあったのだなあと思わせる作品群でした。


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江戸の性愛術

2008年11月09日 00:22

『渡辺信一郎』著 新潮選書 218ページ

江戸時代…遊女館で積み重ねられた知識がここに集結。

「おさめかまいじょう」という門外不出の秘伝書の解説。
綿々と語り継がれ、密かに筆写されたその内容は、江戸の性風俗に関して最高傑作と言える。
いわゆる遊女の指南書で、「おさめ」は技、「かまい」は指導するの意で、「じょう」は箇条書きの意味だとか。

読んでみると…ははあ、すごい本ですな。
女郎の必殺技がオンパレード。上上下下左右左右BA!みたいな(なんだそりゃ)。

・強靭なイチモツを堪能させる方法
・肛交を迫られた場合の対処法
・乳房間の交合の方法  …etc

変わったのでは、
・かんぴょうを使った性技法
・凍りこんにゃくや高野豆腐を使う方法
・芋の皮を巻いて行う秘法  …etc

「すぼけまら(包茎)の扱い方」なんかは、70%が包茎の日本人男性は気になるところでは?

「すぼけまら、えてして男がけつ使い、抜き差ししても気が出ずなり。
 ぼぼ奥に入れ、又浅くして、まら首を締めるがよし。
 深くして、ぼぼ芯に当てるがよし。しばらくして、まら痛しといえば、
 先走り水出て後、百程にて気を出すなり」

うう…百程なんて簡単に言ってくれるもんですな。
女郎が一日に4・5人もの客を取ったとして、合計何百になるのかしら。
想像しただけでも恐ろしいですな~。スタミナ勝負の商売ということか。

笑えたのは後半にある肛交に関する川柳。

「よし町へ行きなと女房かさぬなり」 … 女房に肛交をせまってみたものの、芳町へ行きなとプイっと断られてしまった。
「あれ馬鹿らしい陰間じゃおっせんよ」 … 遊女にもせまってみたものの、そこは陰部じゃないよと釘を刺される。
「顔見世の約束女房けつをされ」 … 今度芝居を見に連れてってやるからサ、いいだろ?とやっとこさ了承してくれた。

なんとも自由な性風習ではないですか。女房も芝居を引き合いに出されちゃ弱いんですね。

面白い事はとにかく面白いんですが、一番困ったのは外で読めないこと。
デカデカと性交の浮世絵だの、性器の描写絵が載っているので(笑)。
家でムフフとこっそり読むのがよきかな。
そして「ぬか六」「ふか七」の意味を知ってもらいたいものです。うふふ。


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O譲の物語

2008年11月05日 02:52

『ポーリーヌ・レアージュ』著 澁澤 龍彦 訳 河出文庫 264ページ

話の流れだけ見ると、どこにでもありそうな調教もの。
しかし、普通の官能小説とは違う、この不思議な感動は何なんだろう。

その館での決まり事はこうだ。

口をきいてはいけない。
主人たちの顔を見てはいけない。
求められたら、いつでも要求に応じて奉仕をしなければいけない。
常に口と膝を開いた姿勢で、いつ何時でも男を受け入れる態度を示すこと。

パリ郊外に建てられた館では、数人の男たちが性の奴隷として女を調教していた。
Oは恋人に連れられ、この屋敷にやってくる。サディスティックな扱いで、
数人の男に犯されるところから始まり、鞭の折檻へ続く。

その館では多くの女がこうして調教されている。
首輪と腕輪をつけ、乳房をあらわにした格好の女給たち。
彼女がこの館を出ていく時には、鉄の指輪をはめられる。
そとの世界でその意味を知る者がおり、求められたならばやはり
何時いかなる時でも要求に応じなければならない。
どこにいても彼女達は自由はない。

Oはその調教を受け入れる。恋人をどこまでも愛していた彼女は、
男たちから受ける凌辱は、「彼から受ける愛撫」であって、愛すべき恋人との行為と変わりないからだ。
事実彼女は行為を重ねるたびに晴れやかに、美しくなっていく…。

そこには通常の恥辱であるとか、価値観であるとかは通じない。
むしろそれを超越した領域であって、性の奴隷としての極みだ。
それをOは誇りに思うのであり、彼女の姿は澁澤氏の筆で気高く美しく描かれる。

とてもエロチシズムを感じる小説ではあるが、セックス描写には文章の脚色が少なく、
いざ行為に入っても描写はあっけない。ハイ、入れました、ハイ、終わりました。みたいな。
しかし、どうして、不思議と引き込まれるものがあるのです。

メイド服だの、洋風な本格的な道具だの、萌える要素は満載。
しかし、そんな外面的な内容より、想像していた以上の(いい意味で期待を裏切られた)心理展開に満足!
冒頭の序説にあるように、読む前と読んだ後で少なからず人を変えてしまう作品。


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