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ワーニャおじさん

2008年08月31日 01:15

『アントン・チェーホフ』著 小野 理子 訳 岩波文庫 148ページ

シェイクスピア同様、戯曲という形で展開されていく内容。
これまたチェーホフの得意な「哀愁を残すような」作品です。

最初、通して読んだ時には「ふーん…」という感じ。
田園生活を四幕で描いた作品で、何か特別な事が起こる訳でもない。
しかし、当時公演された時には、すごい反響があったようで、意外に思えた。

その訳を知るためには、ロシアの歴史的事実を学ばなければならない。
世界史を知らないと、少し理解が及ばない作品なので、私には難しかったです。

夏の初め、ソーニャの父セレブリャコーフが教授の職を退き、
若い後妻エレーナを連れて(ソーニャの母は彼女が幼いうちに死んだ)、
田舎屋敷に戻ってきた。早起きの一家の生活は、夜中に教授の手伝いをさせられたり、
自分の老いと病を愚痴る身勝手なセレブリャコーフのため、すっかり変わってしまう。

主人公のヴォイニーツキイ(ワーニャおじさん)は、教授を崇拝して領地収入を貢いできたのだが、
最近彼に失望して、憤懣やるかたなく、その反動のようにしつこくエレーナに言い寄る。
後半、森林伐採を批判する医者アーストロフもエレーナに言い寄り、仕事そっちのけで屋敷に入り浸る始末。

ちやほやされた現役自体を忘れる事が出来ないセレブリャコーフは、
もう一度都会で暮らすため、領地を売って利回りの良い有価証券に変えようと言いだしたから、
ヴォイニーツキイの怒りが爆発する(かつてはこの領地は自分たち親族のものだったから)。
セレブリャコーフ目がけてピストルを打つヴォイニーツキイだったが、その弾ははずれる。

最終的に、セレブリャコーフとエレーナは、逃げるように都会へ行ってしまった。
ヴォイニーツキイは今まで通り働いて、領地収入を貢ぐことを約束する。
かくして彼らは元の生活に戻り、単調な日々を繰り返すことにしたのだった。
幕が閉じる最後の場面で、ソーニャはこうヴォイニーツキイに語りかける。

「ワーニャおじさん、生きていきましょう。長いながい日々の連なりを。
 果てしない夜ごと夜ごとを、あたしたちは生き伸び、運命が与える試練に耐えて、
 今も、年老いてからも、休むことなく他の人たちのために働き続けましょう。
 そして寿命が尽きたら大人しく死んで、あの世に行き、
 「私たちは苦しみました。泣きました。ほんとにつろうございました」と申し上げましょう」

ロシアの圧政の事情から鑑みると、「出る杭は打たれる」ような時代、
ただもくもくと生き続ける事を皮肉った様子がうかがえるけれど、私見だけでは定かでない。
フェミニズムや森林伐採反対などの内容が盛り込まれているあたり、
当時の若い知識人に強く訴えかける作品だったことは間違いないようだけれど。

ロシアの歴史と、人名とがなかなか馴染めないので、難しいかもしれない。
阿刀田高氏の解説書シリーズでチェーホフを扱ったものがハードカバーで出ていたので、
そちらを読んでからだと、より理解が深まるのではないかと思う。

しかし、奥が深い。日本文学の奥の深さと少し通じるところがあるように思えた。
一度読んだだけでは理解できないと思う。読んで、背景を知り、また読んで…くらいがちょうど良いのでは。
ただ、派手さがないので、どうしても繰り返し読むことに飽きが来てしまう。
世界の文豪相手に大変失礼ですね。申し訳ありません。


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フランケンシュタイン

2008年08月29日 23:39

『メアリー・シェリー』著 山本 政喜 訳 角川文庫 301ページ

映画の本数は50本以上。突出した傷だらけの顔に、首からボルトが飛び出し、
ぎこちない動きで「アーウー」としゃべる姿がまず思い浮かぶ。
フランケンシュタインは、すでにモンスターの代名詞になっている。

しかし、原作を読んだ人は意外に少ないのではないだろうか?
「フランケンシュタイン」は人造人間を作った科学者の方の名前で、
それが作られた方のモンスターと混同されてしてしまった。

若く才能溢れる科学者フランケンシュタインは、死者を甦らせる研究をしていた。
それはすばらしいことに思われた。動物の死骸をもって肉体を作り、命を吹き込む。
成功すれば、人類の科学に大きく貢献することになるだろう。

しかし、生みだされたものは、世にも恐ろしい怪物だった。
誰もが憎悪を覚える醜悪な顔、巨躯はやすやすと成人男性を締め上げる事が出来る。
フランケンシュタインは生み出した瞬間から、それを憎んだ。

醜く造られてしまったものは、孤独だった。
時には川に溺れそうになった子供の命を助けたりした。
しかし、その親はモンスターを見るなり、危害を加え、奪うように子供を連れて逃げた。
どんなに心優しい人間も、彼を憎まずにはいられなかった。

「かつてはおれの空想も、美徳と名声と歓楽の夢にやわらいだものだ。
 かつてはおれも、おれの外形の醜いことを許して、おれが現すことのできる
 すぐれた特質のために俺を愛する人間に会うという誤った望みを抱いていた」

自分はどうあっても愛される事はない。
どれだけ人を愛そうとも、裏切られる。孤独からは逃れられない。
それを知ったとき、希望は憎悪へ変わった。

原作のモンスターは、愛されたい気持ちを言葉で表現し、泣き、叫ぶことができた。
産みの親に対して、自分と同等の醜さの女性を作り、結婚したいと申し出たこともあった。
しかし、科学者はそれを拒否した。この恐ろしい種族が増える事を恐れたのものあるし、
強暴なモンスターをもう一体世に放つ事が、人類に対する罪と思われたからだ。

最後の望みも退けられた瞬間、彼の復讐は始まった。
科学者フランケンシュタインの親しい友人や身内が、一人また一人殺されていく。
まるで、「お前も孤独を味わえ」と言うかのように。

しかし、モンスターがすべての人を殺したとて、彼の孤独は消え去るのだろうか。
人を絞め殺した時、その悲鳴が心地よい歌声として、彼の耳に響いていたのだろうか。
その答えは、産みの親も死に、本当に一人になった時に見えてくる…。

最後に意外だったのが、作者が女性であったということ。
こういうSFは男性が主流だと思っていたので、驚きでした。
作者のメアリー・シェリーについても、その人生が非常に作品にも影響している。
巻末の紹介が特に参考になるので、そちらを先に読んでから本編に入ると、また変わった見方ができるでしょう。


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水妖記(ウンディーネ)

2008年08月26日 23:41

『フリードリヒ・フーケー』著 柴田 治三郎 訳 岩波文庫 165ページ

ジロドゥの『オンディーヌ』の方が作品としては有名かもしれないけれど、原作はこっち。
ヨーロッパに古くから伝わる伝承を元にして、精霊が生き生きと描かれる。

ゲームとかでウンディーネは回復役で大活躍なんで、日本でも親しみのある精霊ですね。
聖剣伝説2ではそれはもうお世話になりました(笑)。
あーいうのって、ヨーロッパの伝承からキャラクターの名前を取ることが多いですが、
もともとはどういう形で語り継がれてきたものか、全然知りません。

水精は人間の女のような姿をしているが、魂がない。
人間の男に愛されてその妻になると、魂を持つに至る。
夫はその妻を水辺または水上で罵ってはいけない。
その禁を犯すと、妻は永久に水中に帰ってしまう。
しかし、死別ではないから、夫は他の女を娶ってはならない。
もし他の女を娶るならば、水精自身が夫の生命を奪いに現れる事になっている。

人魚姫の物語に何となく似ている。
しかし、こういった話は大概、夫が他の女を好きになってしまう。
案の定、ウンディーネは騎士フルトブラントと結婚するが、夫は彼女を捨ててしまう。

魂の無かったウンディーネには、結婚をしたことで魂を持つ事が出来た。
しかし、人間と同じ心を持つという事は、その美しさだけでなく、醜い部分も知ってしまう。
愛に悲しむことを知らなかったウンディーネだが、彼女はその苦しみも受け止めた。

フルトブラントは水上で彼女を罵り、そのため水中に妻は帰ってしまう。
愛していた夫と離れ離れになり、次第に自分のことを忘れて他の女に惹かれる夫を、
彼女は責めることはしなかった。何故なら、こうして悲しいのも魂があるからであり、
この感情を知らずにいるのは、裏切られる事よりも辛いからだ。

彼女は夢の中で夫に語りかける。
「決して他の女と結婚しないでください。でなければ、私はあなたを殺してしまいます」
一緒にいる事は出来ないが、せめてそんな悲しいことにならないように。。。

人間の意志とは脆いもので、周りの勧めがあれば、気持は儚く移ろうものだ。
ウンディーネの警告も空しく、フルトブラントはベルタルダという女性と再婚してしまう。
水中から現れたウンディーネは、泣く泣く夫を手にかける。
フルトブラントの墓の周りには、抱きしめるように水がこんこんと湧き出て、今も泉へ注いでいる。

結末がとても悲しい。人間と精霊の心の美しさの差が激しくて哀れだ。
ウンディーネはきっと、いつまでも夫を思い続けるだろう。
人間が永遠に持つ事の出来ない完全な心の美しさを、彼女は持っているかのように。
むしろ、人間が持てないからこそ、こういった物語が生まれてくるのかもしれない。
身の回りの水や土や、風や火に精霊という人の形をした命を与えて。

ドイツロマン派の幻想的で美しい物語。
日本でもミュージカルなどで公演されている。


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坊っちゃん

2008年08月23日 00:44

『夏目漱石』著 角川文庫 173ページ

夏目漱石の作品では一番読まれている方なので、今さら紹介する必要はないかもしれません。
以前、松山へ旅行に行った友人が、名物「坊っちゃん団子」をお土産にくれました。
ははあ、これが坊っちゃんが食べた団子かあ…それにしてもデカいな。
愚直な主人公の性格が滲み出ているような大きさでした。一気に全部食べた日には、胃もたれ必至。

ストーリーは、漱石自身が松山へ教師として一年間赴任したのをモデルに描いている。
主人公の「坊っちゃん」は、江戸っ児をもって任ずる若い教師。
冒頭の書き出しは、その作品全体を形容していて、
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」とある。
イタズラはするけど、罰は受ける。どこまでも正直で真っすぐな性格だ。

田舎へやってきたはいいけれど、嘘やいつわりに満ちた社会構造に愛想を尽かす。
教頭がその権力をもってして、恋敵を転任させてしまうところだの、
人間関係はドロドロしている割に、作風がコミカルなので笑うシーンが絶えない。
ユーモアと歯切れのいい表現が、爽快で読みやすく、角川文庫なので漢字も易しい。注釈も助かる。

特に興味をそそられたのは、巻末の解説と、作者の紹介。
自分の教師時代の事を書いた小説だと思いがちだが、
漱石自身はまじめで教養があって、学問はどうあるべきかを中学生にも教えるような人間だった。
とても「坊っちゃん」のように、正直だけど少し頼りない教師ではなかったようだ。

日本文学は奥が深いとはよく言ったもので、この作品も単純に見ると面白いが、核になる部分は濃い。
一回読んだだけで、その意図するところが分かるとは思えない。

正直者の坊っちゃんは、最終的には不名誉な誤解を被せられてしまう。
陥れた教頭を「もう許さん」とばかりにボコボコにするが、結局それは自己満足で、
教師を辞めて東京に帰ってしまう。勧善懲悪でもないし、悪く言うと負け犬だ。

物語としては、教頭が女遊びをしていることを世間にバラして、
坊っちゃんの名誉が回復して、正義は貫かれる!という勧善懲悪を期待するが、結末は現実的だ。
それは何故か?漱石がこの時代に感じていたことや、「正義」に対する想いと限界も感じさせる。

笑える作品なだけに、その面白さが前面に押し出されてしまい、肝心の部分が見えてきにくい。
漱石自身もそこは反省しているらしく、「ちっと面白く書きすぎちゃった」的なことを言っている。
しかし、この作家はすごい。読解力を上げるには日本文学が一番いいと思わずにいられない作家だ。


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バスカヴィル家の犬

2008年08月20日 22:27

『コナン・ドイル』著 延原 謙 訳 新潮文庫 266ページ

ドイルの長編では3作目。
これまでのように二部構成でなく、一つの流れで進み、
事件が最初から最後までスピードを失わない。

西部イングランドの荒野に忽然と現れた怪物。
らんらんと光る双眼、火を吐く口、全身を青い炎で燃やす犬の伝説が
その土地では語り継がれてきた。村人たちは、「バスガヴィル家の呪いの犬」だという。
はたして、魔犬は本当に伝説の怪物なのか?

新しくバスカヴィル家へ領主としてやってきたヘンリ卿に魔の手が迫る。
依頼を受けたホームズとワトスンの二人は、それを防ぐことができるのか…??

他の推理小説と違って、情景豊かに繰り広げられるドイルの長編シリーズ。
今回は特に舞台となるデヴォンシャの自然を大いに活用した作風が良い。
泥沢地であるとか、土地の起伏、底無しの大沼、濃い霧、
ホームズ本来の面白さに加えて、そういった「フィールド」が話の奇抜さを更に一段押し上げる。

特に今回注目すべきところが、犯人の手強さ。
基本的に長編はその長さだけあって犯行の手口やトリックも複雑になる訳だが、
それにプラスして、今度の犯人は狡猾。馬車を尾行したホームズが珍しくそれに失敗。
御者に乗っていた人間というのを問い詰めてみると、犯人はホームズという名を騙って馬車を降りていったと証言する。
漂う「してやられた」感。しかも今回は一度きりではなく、数回出し抜かれる。

ただ、このホームズという男、やられっぱなしで黙っているような人間ではない。
むしろ、犯人の知能が高ければ高い程、目を輝かせて、嬉しそうな顔をする。
何度か犯人に網を張るが、逃げられてしまう。
しかし、次第に網を手繰り寄せる力は強くなり、その範囲も狭くなっていく。
シャーロック・ホームズの手腕がここら辺から光り始める。

ホームズの新しい一面は見られなかったけれど、
王道を行く展開に、流しソーメンのごとくスーッと読み終わってしまいました。

それにしても、長編はほのぼの感がなく本当に残酷な殺人で生々しさがあります。
こういう(まぁ本来の推理小説的な)事件を読んだ後は、
短編の軽い(?)事件もまた読みたくなりますなぁ。


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ナポレオン狂

2008年08月18日 21:14

『阿刀田高』著 講談社文庫 279ページ

阿刀田さんの作品では、初めて「小説」の分類に入るものを読みました。
いや、正直侮っていましたが、すごい作家です。
短編が14話収録。どれも発想豊かな作品ばかりです。

「ナポレオン狂」は、第81回直木賞に選ばれた作品で、作家としては初期のもの。
阿刀田さんは自分のエッセイなどで、よく昔の作品の誕生秘話みたいなのを紹介してますが、
過去にナポレオンに関するものを、何でも集めたがる紳士と知り合いになった時、
この人がナポレオンの生まれ変わりに出会ったらどうなるだろう、と考えたのがヒントになったのだとか。
すでにこの時点でゾッとする話に仕上がりそうです…。

30ページ前後の短い作品ばかりなので、読むのはたやすい。
しかし、よくもまあこんな少ない枚数で、内容の濃い作品を仕上げれるものかと思います。
最後の最後でドンデン返し、頬の筋肉がひきつるような奇妙な怖さが押し寄せる。
いや、「怖さ」という表現は何かが違う。ユーレイやら、オカルト的な怖さではなく、
人間が持っている「怖さ」。読みながら頭の中に、普通の日常を描いていたはずなのに、
いつのまにか「何かが奇妙な」感じになっていく。

私が一番ゾッとしたのは、第32回日本推理作家協会賞受賞の「来訪者」。
ある女性が出産後すぐに発熱性の病気にかかり、病院の雑務婦に赤ちゃんの世話を任せていたことがあった。
生まれてすぐに子供の世話ができなかったという悔しさは残ったものの、雑務婦のおかげで治療に専念することができた。
その雑務婦の方でも、心づけを弾んだこともあってか、特に親身になって世話を焼いてくれたようだった。

病院を退院してから、雑務婦はたまに家にやってきた。
若い母親は、病院勤めから、楽な家政婦へ仕事を変えたがっているような態度を彼女に見てとり、腹立たしさを覚えていた。
もちろん、娘が生まれた時は世話になったけれど、いつまでも、恩着せがましい態度をされてはかなわない。
少し懇意にしていたからと言って、彼女を雇って、自分たちの家庭を土足で踏み荒らされるような真似はされたくなかった。
それに、自分が知らないだけに、「生まれてすぐの頃は…」なんて話をされると、母親は妙に憤りを感じるのだった。

雑務婦は二、三か月ごとくらいに家へフラリとやってくる。今日も、いつもと変わらない様子だった。
「少し近くにきたものだから、挨拶でもと思って」
早く帰ってほしいオーラを露骨に示すのだが、よほど鈍いのか帰ろうとしない。
それどころか、馴れ馴れしく赤ちゃんを世話する彼女に、母親は少し気味の悪いものを感じた。

雑務婦が帰った後、自宅へ警察がやってきた。
要件は、先ほどまで家にいた雑務婦当人の事だった。
不安に駆られながら、どうしたのかと刑事に聞いてみると、殺人の容疑だという。
雑務婦には一人の娘がいたが、どこの馬の骨とも知らない男と関係を結び、子供を出産。
生まれた次の日に、その赤ちゃんを母親のもとに残して行方をくらましてしまった。

殺したのはその赤ちゃんで、庭に埋められて白骨化しているのが見つかったのだそうだ。
恐らく、経済的な理由で育てる事が出来なかったのだろう。それにしても…
さっきまで殺人犯が傍にいたことを思うと、ゾッとすると同時に、愛しい我が子の無事を喜ぶ母親。
自分の孫を殺したことで、幸せに見える私たちがう羨ましかったのか。それとも子供を奪おうとしたのか。

しかし…刑事の話だと、子供が殺されたのはちょうど一年前くらいだという。
一年前といえば、自分が出産した頃だ。そして、死んだその子供は「女の子」だったそうだ。
自分の子供も女の子だ。彼女の心にさっきまで気味の悪いほど赤ちゃんの世話を焼いた雑務婦の姿が浮かぶ。
彼女が部屋に戻り、乳児ベッドでまどろむ赤ちゃんをのぞき込むと、その顔はどこか雑務婦に似ていた…。

登場人物も平凡。舞台も日常的。
しかし、ブラック・ユーモアはそんな何気ないところから生まれ出る。
その落差は紙一重。だから読む側も、肌を立てながら堪能できるのでしょう…。


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仏教(下)第二部 教理

2008年08月15日 11:43

『ベック』著 渡辺 照宏 訳 岩波文庫 168ページ

上巻では仏陀についての紹介と考察が主だった本書は、下巻で仏教の教理に移る。
上巻参照はこちらから→http://hihidx.blog115.fc2.com/blog-entry-153.html

仏教は瞑想に始まり瞑想に終わる。
人が生きてる理由とか、死んでいく理由とか、哲学的な事を仏陀は求めた訳ではない。
その答えを求めるよりも実際に瞑想をして、二度と輪廻で生まれ変わらないように
俗世への欲望を捨てる事が第一であった。仏教は実践的な宗教なのだ。

信者の中には、そういった哲学的な疑問の回答を聞きたがる人もいた。
しかし、仏陀はその危険性を知っていた。すなわち、質問者をその答え、
言葉の中に束縛し、心の解脱を妨げることを。

仏陀といえば、仏像とかに見られるように、瞑想をしているイメージがありますが、
実際にその瞑想の中身はどうなっているのか。
仏教の最終目標は「解脱」。いわゆる「涅槃」と呼ばれるものです。
色々な欲望を捨てることによって、輪廻の生まれ変わりの輪から抜け出す。
その為、瞑想をして欲望を捨てる。欲望のすべてが無くなった時が、「解脱」である。

解脱へ至る道にはいくつか道程があって、予備段階を入れると5つの道がある。
まず第一は「信仰」。仏陀の説法で道を踏み出す決意を固める。
簡単に言うと、贅沢な暮しを辞めて坊さんになるということ。
托鉢をして、瞑想をして、清楚で正しい生活をする道へ踏み出すこと。

第二は「戒律」。決意をした後は実行に移す。
言葉も坊さんらしく丁寧に話し、性交を避け、解脱へ向けて努力する。
最終的に欲望をなくすことが大事なので、イメージにあるような「苦行」を必ずしも勧めていない。
仏陀もその昔、苦行をもって欲望を捨てようとしたけれど、途中で「これは違う」と思って辞めている。
その人が、苦行によって欲を切り捨てられるならいいけれど、絶対にしないといけないという訳ではない。

第三は「瞑想」。精神を集中して瞑想にふけると、何も聞こえなくなるという。
仏陀が瞑想をしている時に、その傍に雷が落ちたことがあったが、瞑想中の仏陀には何も聞こえなかったという。
瞑想にも段階があり、上の段階に行く毎に神様の世界を通ったりすることができる。
最終的な解脱に至ると、人は神より偉くなることができる。

第四は「英知」。瞑想にふけることで、人は神通力や千里眼といった能力も手にすることができる。
神様の世界を通っていくのだから、むしろそれ位はできて当然の世界になってくるのかもしれない。

第五は「解脱」。人間の宿命である、「病む」、「老いる」、「死ぬ」の輪廻から脱する。

最後の方になってくると、なんだか現実味のない話になってくるので、
シュールな宗教だと思っていただけに、少し拍子抜け。
本の方は、文献も多く、文章全体も読みにくく論文的。
底本が古い割に内容はしっかりしていると思うけれど、
最後の方で作者自身仏教信仰の厚さが見える気がするので、そこが残念。

仏教を知るという意味では参考になりましたが、もう少し簡単な本でも良かったかなと思います。
最近は宗教が徐々に生活に浸透しているので、「世界の神様がわかる本」とか、書店で見かけますね。
ああいった本でも十分仏教の面白さは分かるのではないかなという気がしました。


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女の一生

2008年08月10日 23:06

『ギ・ド・モーパッサン』著 新庄 嘉章 訳 新潮文庫 364ページ

修道院で教育を受けた純潔な貴族の少女ジャンヌ。
寄宿舎を出て、これから幸福と希望に満ちた結婚生活に入ることになる。
抑制されていた自由の爆発。うぶで世間知らずの少女は、その危うさに気がつくことなどなく。

彼女は外の世界で恋を経験し、結婚する。
しかし、夫は獣性を表し、妻を裏切り、さらに最愛の息子までも彼女を裏切る。
夢が一つずつ崩れ、暗い孤独と悲観主義がその人生に覆いかかる。
私たちは最後の最後までそれでも救いを期待してしまうのだ。

夢想だけで失神を誘うような少女を描き、純粋さを強調するモーパッサン。
彼女があまりに脆く成長したのは、父親のエゴであったろうし、生まれ持った純粋さでもあっただろう。
「これは私の太陽だ!私の夜明けだ!私の生活の始まりだ!私の希望の門出だ!」
歓喜の門出で興奮するジャンヌ。絶望との対比が激しく、読む側が心を痛める。
作者は人間のエゴや愚かさを何気ない行動から沢山引き出し、読む側にそれをストレートに訴える。

幸せな生活をしていたら、その水準の生活から落ちたり、愛されなくなったりすることに、人は耐えられない。
なぜなら、これ以上のものがあると知ってしまっているからだ。
ジャンヌは両親の愛に恵まれていた。恋人にも途中までは恵まれていた。
悲しみや苦しみを解決してくれるのは時間であり、思い出を美しくしてくれるのも時間である。
年老いて、絶望を味わいつくした時に、彼女は年寄りが昔の思い出にふけるように、その時を思い出していた。

ジャンヌにはおよそ世の中の幸せというものを経験した事もなく、誰からも愛されることのなかったリゾン叔母さんという親戚がいた。
夫と幸せだったとき、ジャンヌは一度だけリゾン叔母を笑ったことがある。
今は自分が笑われているのではないのか。そんなさりげない伏線もするどい。

彼女には息子が生まれるが、狂熱的な愛し方で息子を育て始める。
絶望を味わった人間は、「もう私にはこれしか残されていない」と思いがちである。
確実に信じられるものだけを探し出し、それに没頭する。
しかし、そこから生まれるエゴもまた、負の連鎖の一部にすぎない。
そんな事を、誰が気がつくのだろうか…。

例えば子離れのできない母親がいたとして、息子が恋人と遊びに行く事を聞いて、
「もう、大人だからね」と思えるか、「裏切られた」と思うかは、極端に言ってしまえば、
愛すれば愛するほど、裏切られたと感じてしまう、ハリネズミのジレンマだ。
まさにジャンヌは後者だった。夫の裏切りを受けて、傷ついた心が求めたのは息子の独占だった。

この作品、最後まで救いがないのかどうか、本当に心配しながら読みました。
胸が重くなるような感覚を覚えながら、読み進めていくうちに、やっと見えてきた答えがありました。
人を落とすのは人であるが、人を救うのも人である。
人生に期待しすぎず、落胆しすぎないこと。

どんなに絶望を味わって、自分という人間が変わってしまっても、変わらないものがある。
それはいつも変わらず感動を提供し続けてくれている。
すなわち、美しい自然に身を震わせ、生き物を愛で、空の青さに感動することだ。

モーパッサンは、それを文章としてはっきり示唆していない。
けれど、「空のよく晴れわたった日には、人間はどうして希望を持たずにいられようか?」と作品中で述べているように、
そのことを伝えるために、自然の美しさを文章に極めて多く取り入れたのではなかったか。

読者は主人公のヒロインと一緒に救われる。
ジャンヌは決して最後に幸せになる訳ではないが、また希望を持って生きていけることだろう。
いい作品でした。名作だと思います。これだから海外文学はやめられない。


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仏教(上)第一部 仏陀

2008年08月05日 20:30

『ベック』著 渡辺 照宏 訳 岩波文庫 177ページ

最近モーニング2で連載されている『聖☆おにいさん』という漫画にハマっています。
漫画といえば、横山光輝氏の『三国志』と、『新世紀エヴァンゲリオン』くらいしか
最近は興味のなかった私ですが、友達に勧められたこの漫画にはかなり爆笑しました。

結構人気もあるようで、作者のサイン会とかも催されているそうな。
内容は、世紀末のお勤めを無事に終えたイエス・キリストと仏陀が、
東京のアパートで部屋を借りて生活しているというもの。
宗教を知らなくても充分楽しめる内容ですけど、知っているとなお面白い。
借りて帰ったあと、電車で読んでましたが、笑いを抑えるのに必死でお腹がよじれそうでした。

とまあ、漫画の話は置いといて…。最近は宗教を知ってると随分便利ですね。
ロシア文学がジュンク堂で平積みになっていてビックリしましたが、
読書が流行りに乗ってきた感じがします。これを機に、古典文学の見直しも起こっているようですね。

ただ、仏教とキリスト教では絵的にもストーリー性も、
ドラマチック感が大きく違うのでしょう。仏教を元にした作品はあまり見かけません。
今回この本を読んで思ったのは、いやいや仏教も負けてないよ!ということ。

キリスト教との大きな違いは、仏陀自身が神や教祖となっていないこと。
イエス・キリストは「神の子」として地上に降り立ったのであって、
キリストの像に向かってお祈りするのは、神様にお祈りしているのと同義。
しかし、仏陀は教えを広めただけであって、自らを教祖として崇める事を、むしろ反対している。
「自分が死んだら、教理を師と思って修行に励みなさい」と、死ぬ時にも弟子に言う。

じゃあ教理とは何なのか。意外に仏教の教理って知らないんじゃないでしょうか。
教典がないと仏陀は現れなかっただろうし、仏陀がいないと仏教は世界に広がらなかったでしょう。
この本の第一部は、仏陀の生涯と、仏陀という人間の考察、文献の考察などが主だった内容。
前半部分、仏陀の生涯はストーリー性があって面白いけれど、後半は興味のない人には大学の講義のようでつまらないかも。

先ほど、仏教もストーリー性は負けてないと言いましたが、
なにせその生い立ちがシュールな事と言ったら、キリストに対してもタメを張るでしょう。
生まれた時は、母親の右脇からポロっと出てきて、いきなり7歩歩いたかと思うと、
「天上天下、唯我仏尊」と言い放つ。すごいエラそう(笑)。王子として何不自由なく過ごして結婚もする。
しかし、ある日外に出かけた王子は、年老いた人と、病に苦しむ人、そして死んだ人を見る。

美女に囲まれ、おいしいものを食べ、金銀宝石に彩られ生活してきた王子は、
いずれ行き着く人の運命を見て、虚しさを覚える。
どうせ人は死ぬのだ。しかし、こういう俗世の欲望があるためにまた生まれたいと望む。
そしてまたこの世に生まれ出ては、死という運命を背負って苦しむ。その繰り返しなのだ。

死という苦しみを避けるにはどうしたらいいのか。
ピコン!(クイズ大会のあれ)
そうだ、生まれてこなきゃいいんだ!!

少し乱暴すぎる解説になりましたが、簡単に言うとそういう感じ。
ブッダが苦行を行うのも、俗世の煩悩や官能欲を断ち切って、死を繰り返す輪廻転生を断ち切るため。
輪廻で生まれ変わるのは、私はいいことだと思ってたのですが、認識違いだったようです。

すべての人は「患者」であって、病める精神の持ち主。
仏陀はその人々を救うため(輪廻を断ち切るため)に立ち上がり、仏教を広める。
仏教の基本的な部分を理解するのは、意識的に本を読まないと分からないものですね。
なかなか読む機会がなかったので、今回は勉強になりました。


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アントニーとクレオパトラ

2008年08月04日 21:19

『シェイクスピア』著 福田 恆存 訳 新潮文庫 204ページ

『ジュリアス・シーザー』を読んだ後には、やっぱりコチラもチェックしたいところ。
シーザーが戦争や政権争いを中心に展開されていくストーリーならば、
『アントニーとクレオパトラ』は、愛の物語です。

第二回三頭政治が行われ、ブルータス陣営のシーザー暗殺を企てた元老院派を追軍し、
シリアへその進行を進めていた時、アントニーはクレオパトラに出会う。
舞台は二人がその冬をアレクサンドリアで過したあとから始まる。

三頭政治の当事者の一人である、のちのローマ皇帝一世、オクテイヴィアス(オクタヴィアヌス)と、
自分の妻ファルヴィアとが戦争を始めたという知らせがアントニーのもとに入り、
ローマへ帰還するアントニーを、クレオパトラが引き留めている。

どうもクレオパトラは政権を取るためにシーザー、アントニーと順々に男をたぶらかしたイメージが強く、
本当に愛した男は果たしていたのかどうか、疑問に思うところだけれど、
シェイクスピア劇では少なくとも、この2人は深く愛しあっていたようだ。

どうしても帰るというアントニーに拗ねてみせるクレオパトラ。
引き留めても無駄であろうことを分かっていつつも、ダダをこねてみせる。
大人の恋を知りつくした二人が見せる束の間の恋劇は、これからの悲劇の幕開けを思わせる。
歴史的事実でしか知らない美女が、シェイクスピア風味の女性に仕立て上げられているのが楽しい。
ラブラブっぷり全開で、他の史劇に比べると少し違和感があるけれど。

ローマへ帰ったアントニーは、オクテイヴィアスの姉と結婚し、一応は和平が成立したかのように思えた。
その知らせを聞いて、嫉妬に狂うクレオパトラ。
軍人として名を馳せたアントニーが、権力や政略を重視する本来の顔へ戻ったのだ。
しかし、アントニーが結婚をしたのはあくまでも政略上の事であり、結局はクレオパトラの元に戻っていく。

軍人としてのアントニーと、愛に生きる人としてのアントニー、
両面の人間性が見られるが、最終的にアントニーは愛を選んだのであり、
その為に名誉も死も恐れずに行動したのである。
この作品の見どころは、何と言ってもこれに尽きる。

では、歴史の事実はどうだったかというと、アントニーに関しては確かにクレオパトラを愛していただろうが、
肝心のクレオパトラの方はよく分からない。推測で物語を描くしかないシェイクスピアが出した答えはどうだったのか。

その後、アクティウムの海戦でオクテイヴィアスに敗れたアントニーは、
クレオパトラが自殺したという誤報を受けて、自らの命を絶つ。
歴史の流れから見れば、クレオパトラはアントニーの死後、
できることなら勝者であるオクテイヴィアスをも利用して、生き抜こうとしたように見える。
つまり、シーザーやアントニーをたぶらかした魅力で、オクテイヴィアスをも虜にし、
利用してやろうという魂胆である。しかし、彼をたぶらかすことはできなかった。

クレオパトラが自殺した理由はいろいろな説があるけれど、どれも信憑性がない。
シェイクスピアの劇中では、クレオパトラがアントニーの死を知り、その後を追う。
オクテイヴィアスに対しては新しい主人と仰ぐけれど、それは誰にも邪魔されずに死ねるように、
従うそぶりを見せていただけの事…という具合である。

クレオパトラはオクテイヴィアスへ「死んだら夫のアントニーのそばの墓へ埋めてくれ」と、
遺言を残している。けれど、これも甚だ事実かどうかは怪しいものだ。
ただ、シェイクスピアは伝えられているストーリーをそのまま素直に引用したようだ。

結果的に、私はこの作品には満足している。
悲劇というカテゴリーでは、『ロミオとジュリエット』に近いものがあるけれど、
若い情熱が死に向かって一直線に走り抜ける物語ではなく、
成熟した男女が色々なしがらみの中で愛に生き、そして死んでいく。
そんなストーリーが、歴史と絡み合って悲劇を構成するのが、なんともシェイクスピアらしいからだ。


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