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シーシュポスの神話

2008年05月31日 01:15

『アルベール・カミュ』著 清水 徹 訳 新潮文庫 206ページ

「異邦人」ですっかりやられてしまったカミュ。
独特な世界観はどうして生まれたのか、その理由が垣間見える作品でした。
異邦人はこちらから↓
http://hihidx.blog115.fc2.com/blog-entry-37.html

作品全体から受けたイメージは、「この世界の不条理を追求する作家」といえばいいだろうか。
その矛盾を前にして、カミュは逃げずにすべてを受け入れている。
不条理。何度もこの本で出てくる言葉なので、一応定義を書いておくと、

「理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が
 激しく鳴り響いていて、この両者がともに相対峙したままである状態」

…何のことかよく分からん(笑)。
作者は形而上学的なものの中でも、より身近なものを一番に追及している。
第一に取り上げるべき不条理…それは「自殺」であると。確かに私たちにとって、
なんだかよく分からない難しい哲学より、誰にでも起こりうる問題を提起してもらった方がいい。
カミュに言わせれば、ガリレオの地動説で、天が動こうが地が動こうがどうでもいいのである。

では自殺の不条理とは一体何か。
自殺は「生きるに値しないので死ぬ」という前提がある。
(それ以外の場合、例えば政治的な主張のために死ぬ…などを除いて)

己を殺すのは、つまり生活の苦労をするまでもないと告白することである。
毎日の習慣(といわれるもの)から抜け出し、それを「くだらなくて」「無益なもの」と認めることである。
しかし、人間は死んでも「無」になるだけである。「無」にはすがるものは何もない。
ならば自殺は生きる苦労の根本的な解決にならない。

生きてても「無益」だと認め、「生きる」の反対「死ぬ」を実行しても、「無益」の解決にならない。
この矛盾だ。つまり、不条理だ。今まで自殺をした人は、「自殺が有益である」という
論理的な結末まで行き着いて自殺を実行したのか?いや、そうとは思えない。

たいがいの人間は、これまでその不条理に対して、体をかわして生きてきた。
それはつまり、死後に楽しい世界、天国や最後の審判があると信じる事によって、
「苦しくても生きるための理由づけ」をしてきた。

つまり、人間は「自殺か、希望か」そのどちらかしかないということになる。

カミュはその対極を論理によって統一させようとはしない。
なので、自殺もしないし、神を信じる事もしない。不条理の挟間に身を置いている。
彼の作品、異邦人を読んでいてもそうだが、決して不条理に答えを求めていない。

「それ、ここに立ち並ぶ樹々、その肌の粗い手触りをぼくは知っている。
 ここに流れる水、その味をぼくはしみじみと味わうのだ。夜、草と星々は
 あのように匂い、時として夕暮れに心が和らぐこともある。
 そんなふうにして、世界の力とそのさまざまな現れを身にしみて感じているとき、
 その世界をぼくはどうやって否定できよう」

なんだか、その姿勢にホッとしてしまう。不条理を追求するが、
「対極の統一」は求めていない。死ぬか、死後の希望かなどは選ばずとも、
そのままの世界を…美しい世界を受け入れようという姿勢に。

作品中には、キルケゴール、ドストエフスキー、ニーチェ、カフカなど、
多くの作品がテーマに取り上げられているので、キャパが広くない私は
読んでいても分からないことが沢山ありました。
少し勉強が足りなかったかなあ…と、反省。これからも日々精進です。


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異邦人

2007年11月26日 22:35

『アルベール・カミュ』著 窪田 啓作 訳 新潮文庫 143ページ

本の裏表紙には、簡潔にストーリーが書かれている場合が多い。
バザーの古本コーナーで、この本を手にとって、
「あ、カミュだ。いつか読もうと思ってたんだ~」と、何気なく裏を見てみたら、
内容の面白そうなこと!

興味をそそられる紹介なので、真似て一部を掲載してみる。

『母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、
 映画を見て笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、
 動機について「太陽のせい」と答える』

これで、興味をそそられない訳がない。どういうこっちゃ!?
不条理の認識を極度に追求した傑作ということだが、なるほど、難しいが確かにそんな感じ。

主人公のムルソーは、殺人罪の死刑判決を前にしても、淡々と追求し続けた。

例えば、ある人が大恋愛をしたとする。
身も心もささげ、この人のためなら死ねると思った。
けれども、人は忘れていく。その熱い気持ちもいつかは薄れていく。
それが、人によって早いか遅いかの違いがあるだけで。

人間が、慣れてしまえないものはない。それは早いか遅いかだ。
人間が、忘れてしまえないものはない。それも早いか遅いかだ。

なら、いますぐ忘れてもいいのではないか。

彼は人殺しの罪で裁判にかけられた。
検事は母親の死後の彼の行動について、激しく非難を浴びせた。
人間的な感情が欠落している。被告は極めて冷血だ。

陪審員が彼に死刑判決を与えたのは、殺人の行為の経過よりも、
母親の死後に関するいきさつが大いに関係していたのは明らかだった。

なぜ?
ムルソーは独房で考えた。


たまに見せる、母親への愛情が、彼の人間的な部分を表していて、
非人間的という印象を薄れさせる。そこがまたポイントだと思う。
彼も、私たちと同じ人間であり、決してかけ離れた世界の人物ではない。

「人は悲しいくらい、忘れていく生き物。
 愛される喜びも、寂しい過去も」
ミスチルの歌には、こんな歌詞があったけど、まさにその通り。

本当は、忘れていくことは不条理でないのかもしれない。
けれど、「人間的」という世の中の定義は消えることはない。
それが人間なんだから矛盾に満ちた生き物でいいじゃないと、諦めるのが一番だったりしてね。


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